14年前

  祖母のベッドで目を覚ました。ヘリコプターの音がうるさい。視界は何となくオレンジ色の光に包まれている。部屋の窓は西向きではなかったが、夕方の気配がした。何時間眠ったのだろう。周りの人たちに置いてかれるような気がして、病気の時でも昼間眠っているのは嫌だった。しかしあまりの辛さに今回ばかりは諦めて寝たのだ。しっかり良くなっていればいいのだが…そう思ったのもつかの間、病魔はしっかりとそこにいて、体中が苦しんでいる。それでも周囲に誰もいない寂しさによる妙な不安感から、ベッドを這い出して居間に向かった。時間は午後四時を過ぎていた。

 

 母はパートでいない。では姉や祖母は家にいるだろうかとそんなことをぼうっとした頭で考えていた。押し寄せる悪寒、関節痛から逃げるように炬燵へ潜り込む。またインフルエンザに罹ってしまった。次学校に行けるのはいつだろう。走れば三秒でたどり着けるところにいる、幼馴染の顔を思い出した。学校は終わっている。プリントは届けに来てくれたのかな。祖母が庭にいるとすると、その場で受け取ってしまうだろう。顔も見れずに去ってしまうに違いない。

 寝汗が冷え始め、不快さも寂しさも募ったその時、玄関から台所に掛けて物音がした。母親が帰ってきたのかと思い、すぐにそんなわけないと思い直した。パートで出ている母は五時にならないと帰ってこないのだ。だが居間と台所を隔てるカーテンを開けたのは、母だった。途端に安心感が芽生えてきた。だが母の顔にもほっとした感じがあった。「良かった。学校で事件があったの。知ってる?」突然の発言にはてなマークが浮かぶ。「事件?」誰かが悪さして、それが親たちに伝えなければならないほど大ごとだったのだろうか。「テレビ見てないの?」テレビになるほどのこと?事態が呑み込めない。「今日はちゃんと寝てたんだよ」そんな中でも珍しく真面目に病人をやっていたことを自慢げに言った。それに対して母は意外そうな顔をして、すぐに表情を和らげ少し褒めてくれた。そしてすぐにテレビを付けた。

 見慣れた街が映っていた。自分の街を空から見たことはなかったが、すぐにそれと分かった。ずっとうるさいヘリコプターの音は、画面の中の景色とまさしく繋がっていた。

 

 

 四時の時点で帰っているはずだった姉は大分遅くなってから帰ってきた。母親は我が子が無事だった事実にようやく落ち着けるようだった。半面姉は不満をあらわにしていた。課外活動から帰ってくる途中、引率の先生から突然元の場所に戻るように指示されてそのまま長い間留め置かれ、やっと解放されたのだという。毎年その時期は学校が大学や地域と連携し、普段子供に体験できないことをさせてくれることになっていた。連携先から帰れなかったのだ。会社から早退した父はすでに父兄会に参加するため学校へ向かっていた。数時間寝たことと、事件の高揚感から元気になり始めた僕はこれで勉強が遅れることはないだろうと胸をなでおろしていた。ことの重大性を全然分かっていなかった。

 体育館の舞台いっぱいの花。大きな肖像。すすり泣く上級生。一人の人間が亡くなったことに圧倒されていた。身近な人間が襲われ、まさか死ぬまでの事態になるなんて。人が死んだら悲しくなるはずだ。だがその先生のことをよく知らなかった僕は、彼が担任してきた上級生の側に立てなかった。亡くなったのは悲しい。けど何の思い出のない僕には、上級生ほど悲しむことはできないし、悲しんだところで不遜に思えた。ただ不憫な気持ちで上級生たちを見ていた。級友たちも同じ思いのようだった。

 その後数年は驚くほど普通に過ぎていった。校長も代わり、上級生たちも卒業するとその事件の当日さえ何でもない一日のように思えた。僕は事件を忘れた。

 

 

 再び思い出すようになったのは、友人の死と直接は知らない先輩の死があったからかもしれない。当日、学校の正門には献花台があった。それをカメラに収めて去っていく人がいた。帰宅時そこを通りかかる子供たちは、手を合わせて通り過ぎて行った。

 あの先生は、間違いなく生徒のために行動していたのだ。自分は刺されるかもしれない。しかし生徒を守るためなら。あれほどの思いを持って動ける人はどれくらいいるだろう。先生の中にも、そんな行動を取れる人がどれだけいただろう。教育関連の職を考えるとき、自分の心に去来する。生徒を一番に考えられるか?守るために適切な行動を取れるか?殉じる覚悟はあるか?